
「この世」という場所
いい人、できる人、すごい人
キラキラしてる人、イキイキしている人
気遣いできて機転が効く人
人当たりのいい人
ノリが良くて、コミュ力高い人、
そんな人が人から好かれ、可愛がられ
信頼されて、人が集まり
仕事もうまく回り、お金も入る。
これまでのこの世では、確かにそういうところがあったかもしれない。
だから私たちは
なんとかそうなろうとして、
大なり小なり努力してきたし
努力できた人はそうなれて
「成功」を享受できたし
しかし表側の努力の裏では、
本当の自分が実は疲れ切って
ため息をついていた人もいただろうし
やろうとしたけどできなかった人は、
なんとなく釈然しないまま、
そこそこのところで
割り切ったり諦めたりしてきたし
深刻に考えてしまう人は、
そうなれない自分を
責めたり嫌ったりもしてきた。
私自身は、
やろうとしたけどできなかった人
の部類に入る。
だからこそ思うのだけど、
確かにこれまでの世の中は
そうだったかもしれない。
でもこれからは、もうそういうの、
いいんじゃないかな。
もちろん、もともと天然で
そのまんま出してたら
そういう人なんだったら、
それはよかったね!どうぞそのままGO!
なんだけど
でも、本当は
そんな人じゃないのに、
そんな人になろうとして
努力してるんだったら
後付けの努力で作り上げた
「そんな自分」は、
本当に自分なのだろうか?
こういうふうに見せて
こういうふうに言って見せて
こういうふうに振る舞って見せて
って、全部見せる用の自分。
こういうふうに思わせて
こういうふうに思わせないようにして
こういうふうに言われるようにして
って、全部人の感情のコントロール。
人の感情をコントロールするために
自分の思うこと、言うこと、
やることをコントロールする。
それによって得られるものは
人の好意、人の承認、人の支持。
成果、結果、お金、立場、地位。
いいのよ、もちろん!
それがこの世を生きるということ。
成果、結果、お金、立場、地位があれば、
この世をより快適に生きることができるし
人の好意、人の承認、人の支持があれば、
とりあえず心は満たされる、
ような気にはなれる。
それらが揃いさえすれば、安心が手に入り、
幸せが手に入る、
ような気にはなれる。
「本当」がどうかなんてともかく、
それだけ手に入れば万々歳じゃないの。
それがこの世を生きるということ。
これまでの、この次元の、この世ではね。
ここまで、オーケー。
しかし問題はここから。

「その先の問い」に行き着いてしまったら
さて、でもしかし。
それが本当に
「生きる」ということのゴールなのか?
この問いの次元まで足を踏み入れるか、
踏み入れないか。
踏み入れてしまう人と、
踏み入れないでそのまま
この世を駆け抜ける人と、
たぶん両方いるのだろうと思う。
自分は本当にそれで「生きた」と満足できるのか?
この感覚に気づいてしまったら、
自分の「本当」をもう無視することはできなくなるだろう。
問いは、先ほどの逆回しだ。
成果、結果、お金、立場、地位
を得るために
人の好意、人の承認、人の支持
を一生懸命取り付けて
人の好意、人の承認、人の支持
を取り付けるために
こういうふうに思わせて
こういうふうに思わせないようにして
こういうふうに言われるようにして
と、人の感情をコントロールして
人の感情をコントロールするために
自分の思うこと、言うこと、やることを
こういうふうに言って見せて
こういうふうに振る舞って見せて
コントロールして
見せる用の自分に作り上げる。
結局、作り事とフリだけで世渡りして
得たものが「成功」とやら?
それって、本当に自分なの?
本当に自分の人生なの?

そろそろ「本当」を取り戻さないか?
繰り返しになるが、
もちろん、元々の性質のまま、
天然でそのままそうなんだったら、それでいい。
でも、本当はそうじゃないのだったら。
本当はそこまでいい人ってわけじゃないし
できるわけでも、すごいわけでもない。
実はハッキリものを言っちゃうアクの強さや
独自のこだわりを持っていたり
地味だったり、ゆったりまったりしてたり
そんなに気がつくわけでもない
ちょっとぶっきらぼうだったり
盛り上げるより黙ってる方が得意だったり
ノリのいいコミュ力なんてない。
それじゃだめなのだろうか?
むしろ、そんな自分を
「ダメだ」と決めつけて
恥じて隠しているからこそ、
作為をやめられず
本当の魅力は伝わらず
「やっぱりこんな自分じゃダメだ」のループに
落ちていくのじゃないだろうか?
もう、これからはね。
それが本当なんだったら、
その本当の自分のままでいることの方が
価値があると、私は思う。
みんながみんな
キラキラしなくていい。
ノリが良くなくていい。
努力で作ったハリボテのような姿で
覚えたセリフのような「ウケのいい言葉」を
テンポよく吐くより
不器用でも、素朴でも、ゆっくりでも
肚の奥から湧いてきた「本当の一言」の方が
よっぽど心を打つことがある。
どれほど言葉でたくさん言い立てるより
「本当」の思いが溢れた眼差し一つの方が
心に届くことがある。
そんな「そのままの自分」を
自分で受け入れて(ある種、諦めて)
それでもいいや・・と力が抜けた時に
実は元々の自分が持っていた本当の力が目覚め、
それが溢れて本当の魅力として人にも伝わるものだ。
その「本当」の力を
そろそろ信じても良くはないか。
長らく門を閉ざして閉じ込めてきた
自分の「本当」を
もう、解放してやっても良くはないか。

一軸の世界から多軸の世界へ
いや、だけどそんなことしたら
人に好かれない、人に支持されない
うまくいかない、お金が稼げない
生きていけない。
それは本当だろうか?
私は「いや、そうじゃない」と断言したい。
それは旧いこの世のルールだったこと。
それはまるで旧い大木のようなものだ。
確かにまだまだ存在感は大きい。
しかし今は、
その隣にもう一つ別の木が、
なんなら1つじゃなくて何本も
着実に伸びて育っているから、大丈夫。
軸はもはや1つではない。
別に「人のことなんか気にすんな!」
と言っているわけではないの。
自分自身が「本当」でありながら
人と共に生きることは
両立しない無理難題ではないよね?
と言いたい。
今の私は、こう考えている。
私たちが生きる現実とは、
「それだけ、1つだけ」が全てではない。
「これまでのこの世」に片足を入れながら、
そうではない次元の「別の世」にも
片足を入れて生きることが
可能ではないだろうか、と。
違う次元の「別の世」とは、
意識のレイヤーを変えた場所。
自分がその意識を持てば、
そのレイヤーを生きることもできる。
このことのリアリティが増すほどに、
作り事とフリだけで世渡りを
しなければならない
「しんどいこの世」という場所が
全てではないことに、
深い安堵と、希望を
見出すことができるだろう。
かといって、
これまでのこの世を捨てるわけではない。
この世のゲームのルールに
ある程度は乗って生きることも可能だ。
しかしどっぷりとも浸からない。
いつでも抜けて別の次元で休憩できる。
この世と別の世に、
片足ずつ足を突っ込んで生きる。
私自身はこの立ち位置が
今しっくりきている。
最後にこの画像を紹介したい。
タロットの大アルカナ14番「節制」。
片足は大地に。片足は水に。
そしてカップの中の水を自由に配分する。
まさにこのことを象徴するようなカード。





