
たくさんの方に伴走してお話を聞いていると、本当に多くの人の奥深いところに、
「助けられなかった」
という深い悲しみと後悔が埋まっていることに気づきます。
そしてそれは、本人も気づかないまま、その後の生き方を決めています。
原点は、幼少期の家族
いったい誰を助けられなかったのか。
一番大きいのは、幼少期の母親、あるいは父親、きょうだいなど、家族です。
よくあるのは、母親がいつも機嫌が悪いケース。
いつも怒っている。いつも悲しそう。いつも大変そう。
母親本人以上に、子どもの方がその顔を見て「お母さんが苦しんでいる、かわいそうだ」と受け取ってしまうのです。
しかも、自分がどれだけ頑張っても、お母さんは笑顔にならない。幸せそうにならない。
大袈裟なようですが、このことが「助けられなかった」という深い無念と罪悪感となって、潜在意識に刻まれます。
このパターンを持つ人は、男女問わず本当に多い。
それが現場レベルの実感です。
ほかにも、父親やきょうだいが苦しんでいると感じ取り(あくまでも子どもの解釈です)、
「自分が守らなければ、救わなければ」と心に決めてしまう(あくまでも子どもの論理です)。
それが、大人になってもずっと続く「背負い癖」「頑張り癖」の原点です。
本当のところ、そこには「投影」というメカニズムが働いていて、一筋縄ではいかないロジックがあるのですが、ここでは詳しく触れないでおきます。
ともあれ、一番身近で大切な家族を愛するがゆえに、その人が苦しみや悲しみ、怒りの中にいる――幸せではない状態にある――と子どもの目に映ったとき、
「自分には助けられない」という無念を抱く。そういう普遍的なパターンがあるということです。
もちろん、幼少期ばかりではありません。
年齢を問わず、人生のさまざまな場面で、「助けられなかった」という激しい感情が引き起こされることがあります。
この感情は、とても重く、嫌な感覚を伴います。
自分にはどうすることもできない無力感。
愛する人の悲しみや苦しみを解決できないことへの、大きな罪悪感。
そして、それゆえの無念と後悔。
個別の事情は様々でも、「助けられなかった」という重い気持ちは潜在意識の奥にずっと埋まり、その人の背中にズドンと乗ります。
まるで十字架のように。「助けられなかった」という罪を背負って生きることになるのです。

十字架を背負った生き方
具体的に、どういう生き方になるか。
罪の意識ですから、自分を責めるようになります。
自分が幸せを望むことを、自分で禁止するようになります。
嬉しい、幸せ、喜び。それらを感じることが罪のように思えて、苦しいこと、しんどいことを自ら選ぶようになったりします。
もちろん、すべて無意識に。
とにかく頑張る、やたらに頑張る「頑張り屋さん」の背景にも。
前向きな自己実現に邁進する場合にも。
この「助けられなかった」のエンジンが深く関与していることがあります。
「もっと高く、もっとできるように、もっと強く、より広く、より大きく」。
そうした拡大成長志向は、それ自体は悪いものではありません。
けれど、それを動かしているのが「助けられなかった」という無念と後悔のエンジンであることがあるのです。
人のために尽くすパターンにも、これが関わっています。
自分のことは横に置き、忘れ、後回し。
「自分はいいから、人のため、人のため、誰かのため」。
そうやって自己犠牲的に尽くしていく、その奥にも「助けられなかった」無念が潜んでいることがあります。

何が問題なのか
それの何が問題になるのか。
人生の一時期、どんなエンジンであれ前に進み、自己実現し、成長していく。
これ自体は悪いことではありません。
人のために力を尽くす。それも間違いではありません。
しかし、その奥でいつも自分を追い立てているのが、重い罪の意識、無念、自責感だとしたら。
ここに苦しさの原点があるのです。
結果として、頑張っても頑張ってもしんどい。
楽にならない。
達成しても達成しても満たされない。
駆り立てられるように人のことばかりに奔走し、自分は後回し。
実はクタクタに消耗しているのに、そのことにさえ気づかず、ますます自分に鞭打って、最終的に倒れてしまう。
そんなことも起こります。
いつまで続くかわからない、無限地獄のような枯渇感。
これが、自分自身の心と存在と人生を、次第に蝕んでいくのです。
ですから、人生の一時期まではこのエンジンで駆け抜けてもいい。
しかし、あるときから人生の次のステージがやってきます。
「本当にもう、自分は幸せになってもいいのではないか」
「自分が自分の幸せを考える、そんなステージがあってもいいのではないか」。
そんな転換のときが来たのなら、問い直し、見直すべきはこの「助けられなかった」という無念なのではないか。
私はそう考えています。

さらに奥の層――集合無意識
「助けられなかった」という思いは、実はとても根の深いものです。
先ほど、原点は親や家族と書きました。
それはいわば第一の層で、そこでは確かに親や家族がきっかけです。
しかし長年いろいろな例を見ていると、さらに奥の層があることに気づいてきます。
人類全体の集合無意識の層です。
そこには、歴史的・社会的な年月の積み重ねが関わっています。
千年単位の人類の歴史の中で、一般の民にとって、苦しむことはデフォルトでした。
労働に苦しみ、戦争や飢饉、貧困、病、災害に苦しみ、支配者からの略奪や搾取に苦しむ。
残虐な仕打ちを受けることも普通にありました。
宗教的なしがらみに囚われ、本当に苦しみに満ちた時代を長く生きてきたのが、私たち人類です。
そのなかで、身近な人、大切な人、大切なコミュニティが壊され、奪われ、命を落としていく。
そんなことが、どれだけあったでしょうか。
さらに、スピリチュアルな話になりますが、アトランティスという時代があったという説があります。
トランティスはある日突然、海の中に沈んでいったと言われています。
命からがら船を出して生き延びた人たちがいる。
同時に、取り残されて沈んでいった人たちがいる。
その記憶が、集合無意識の深いところに刻まれている可能性もあるようなのです。
もちろん、この話を信じる信じないは自由です。
余談になりますが、私がなぜそう考えるようになったか。
随分昔に参加したスピリチュアル系のセミナーで、過去に遡り、無意識の層に集団でアクセスするような瞑想が行われました。
そのとき、本当に不思議なのですが、アトランティスのくだりで複数の人が突然、激しく慟哭し始めたのです。
激しい後悔と無念の中で繰り返された言葉。それも「助けられなかった」でした。
助けられなかった後悔と無念、そして慟哭。
人類が1万年以上前から繰り返してきたものであり、同時に、今ここに生きる人の中にも、リアルな親や家族への思いとして存在している。
マクロとミクロが一致するような、普遍的な情動なのだろう。
私はそう推測するようになりました。

それが「愛」だったからこそ
つまり、「助けられなかった」は生き残った側の情動なのです。
大切な人やコミュニティを失ったとき、生き残った側に湧いてくるもの。
それが「助けられなかった」という悲しみと慟哭、それゆえの後悔と無念、そして罪の意識です。
そこまでの思いを刻むのは、もちろん、それほどまでに大切だったから。
それほどの愛があったからです。
助けられなかったという無念と自責は、愛の表現でもあるのです。
大切なんだ!というその思い、その愛を決して忘れないために。
ずっとずっと忘れないために。
自分が十字架を背負い続け、その思いを痛みとして刻み続ける。
愛ゆえに十字架を背負う。
まるで祈りのように、自分自身に刻み続ける。
美しくも切ない、歴史レベルで刻まれた人間の心の仕組み。
何千年と続いた苦しみの時代ゆえの、人間の愛の表現の一つでした。

もう、十字架を下ろしていい
しかし今、時代は変わりました。
長かった苦しみの時代が、もう終わろうとしています。
やっと自分のことを考えてもいい時代。
自分の幸せを望んでもいい時代。
その方がいいじゃないですか、という価値観が、ようやく日の目を見る時代になりました。
そのときに、助けられなかった十字架をいつまでも背負い続けることが、自分の幸せになるのだろうか?
そんな問いが自然に湧くのは、不思議なことではありません。
私は思います。
もうその十字架は、背負わなくていいのです。
もちろん、大切な人を失ったとき、一定の期間、悲しみ、嘆き、慟哭し、助けられなかった思いを存分に表現すること。
これは嘆きのプロセスとして自然なことです。
それをきちんと嘆くことが許される期間を、「喪」というのでしょう。
相手が今も生きている場合でも、同じことが起きています。
助けられなかった、あの頃の母を、父を、心のどこかでずっと悼み続けている。
いわば、終わらない「喪」です。
しかし、それは一生やり続けることなのか。違うと思います。
一生「助けられなかった」と思い続け、一生自分を責め続ける。
それを、当のその方は本当に喜ぶのでしょうか。
すでに旅立った人であっても、今も存命の親であっても、この問いは同じです。
いつになったら、その「喪」は明けるのでしょうか。
そろそろ人類は、苦しみ続ける世界から、本当に幸せになる世界を目指していい時を迎えています。
誰かの幸せのために、自分の幸せを捨てる。
この生き方そのものが、もう誰も幸せにしなくなった。
そのことに気づく時です。
重い十字架を、もう下ろす。
自分は、自分のために自分の人生を生きる。
自分の幸せを望み、自分が幸せになる。
それが、みんなで幸せになる第一歩である。
そのようにパラダイムを変えていくときが来ています。

コントロールを手放す
助けられなかったと嘆くその思いは、尊い。
けれど少し冷静に考えてみると、本当に自分がその人を助けられたのかといえば、そうではない場合がほとんどです。
そもそも、自分が助けるの助けないの、こうしていれば、こうしていなければ……と、自分の関与でその人の運命が左右されるようなものではないのです。
自分のあずかり知らぬところで、その人の人生、その人の運命、そして全体の流れが、大きく流れ流れて、そのことが起きた。
自分一人の責任ではないし、自分にそこまでのコントロール権はない。
そこをあっさり認めてしまうところから、十字架を下ろし、自らを許す道のりが始まります。
「自分がコントロールする」という意識を手放すこと。
自分にはどうにもできなかった全体の流れがあり、その上では仕方がなかった。
良い意味での諦め。手放すこと。
これが鍵になります。
今この時代、今というときに、人が一番光を当てて、手放し、浄化していったらいいもの。
それは、潜在意識の奥深くに埋まっている「助けられなかった」という無念なのではないか。
それによって、これからの人類の集合意識は、ずいぶん軽く、明るくなっていく。
そう思えてなりません。




