
言っても伝わらない、伝えたいのに誤解される、気分を害される・・・
そんな思いが強くて、「言う・伝える」ということに葛藤を持つ方はとても多い。
私もその一人だった。
自分自身の経験と、たくさんの方の実例に触れてきた経験、合わせてわかってきたことがある。
今日は「言っても伝わらない」という思いの奥について考察してみた。
「言っても伝わらない」お悩み
「言っても伝わらない」お悩みには大きく2つのパターンがある。
1つは、勇気を振り絞って言っても、声が小さく、語尾がスン。。と下に落ちていて、届いてない。
なのでまともに受け取ってもらえないタイプ。
こういう方は、自分は話が苦手。上手くまとめて話せない。などと思っている。
もう1つは、はっきり言うべきことを言っているのに、あまりよく思われない、誤解される、などで結局あんまり受け取ってもらえないタイプ。
こういう方は、自分の言い方がきつい、言葉の選び方が悪い。などと思っている。
共通するのは、どちらのタイプの人も「じゃあどういう言い方をしたらいいのだろう?」というところに課題感を持ち、
ああ言ってみたら、こういう言い方してみたら、と試行錯誤していること。
つまり
「伝わらないのは、言い方が悪いからだ。言い方を気をつければ、改善できるはず」
という思い込みがそこにはある。
しかし、その思い込みこそが終わりのない「改善→失敗ループ」の起点となってしまう。
おそらくどれだけ気をつけても、改善しても、
一時的には心掛けで何とかなったとしても、
いずれその心掛けが緩んだり、つい地が出たりした場合、やっぱり元通り。
あー、また上手く言えなかった。
あーまたあんな言い方しちゃった。
の繰り返し。
そんな経験はないだろうか?
つまりね、実は「言い方」じゃないってことなんです。
それ以前の「思い方」。
ここにこそ、鍵がある。

受け取ってもらえないのはなぜ?
なんで伝わらないのか。受けとってもらえないのか。
前者、語尾が落ちちゃって届かないタイプの人は、そもそも「私なんかが言ったって」という思いが強い。
自分自身の存在に、自信が持ててない。
存在の自信とは、つまり
自分はここに堂々と存在していていい。
これが私だから。
という感覚だ。
これが希薄で、何となく「こんな私じゃダメですよね」とか「こんな私がいてすみません」という基本トーンがあると、肚は座らない。声に力が乗らない。語尾まで熱がこもらない。
かつ、嫌われるのが怖いので、考えることは
「嫌われないかどうか。嫌われないように」
ここが目的になってしまうので、言葉がふよふよっ・・と漂ってしまう。
相手の心にしっかりしたボールとして届かないのだ。
さらに、このタイプの方は幼少期から親などにずいぶん怒られてきた方も多い。
そうすると基本的に人に対して、「怒っていないか?怒らせないように。でもきっと怒るだろう」という予測を、言う前から立てている。
その思いは、ビクビクとお伺いを立てるような表情にも声色にもなり、かえって相手をイラつかせてしまう。
こんな残念な「入れ子構造」になっている場合も多い。
そういうわけで、このマインドの土台のままで、どんなに言い方を整えても、残念ながら伝わらない。
ちょっとくらいは聞いてもらえるかもしれないけれど、相手が納得して頷くほど、相手の心まで届くことは難しい。
だからこそ、
自分は自分としていていい。
という内側の芯がしっかりできてくると、自ずと肚に重心が戻り、声に力が乗り、言っていることが届くようになる。
その熱量が伝わって、相手の人が納得してくれるようになる。
本当に、その内的な変化というのは、声にしっかりと現れてくるものなのだ。
意外と、ご本人よりも、周りの人の方がすぐにその変化がわかったりする。
私はかつてこのタイプだったので、まさにその変化を自分が体験している。
今ではたくさんの方が、私の講義や対話セッションで、私の言葉を深く受け取ってくださっている。

誤解されるのはなぜ?
では後者、
ちゃんと言ってるのに、よく思われない、誤解される感じがするタイプの人は?
このタイプの方の内側には、土台レベルで、被害者感覚があることが多い。
被害者感覚とは、傷つけられる、裏切られる、不正をされる、騙される・・・など。
人生のわりと初期に、何らかそんな体験をした痛みの記憶があると、基本的な感覚として
「二度とそうならないように」
「あんなことはもうさせないように」
といった、危機感と防衛意識が強く根付いていることがある。
さらに、「された」ことへの憤りの感情も、未処理のままどこかに埋まっている場合も多々あるので、
この方の内側には、危機感・防衛・憤り・・・というまあまあ物騒なエンジンが駆動していることになるのだ。
このエンジンで、「大事なことだからはっきり言わないと!」と自分にとって正しいことを言うとする。
その言葉はおそらく正しい。正論だ。みんな「確かにそうだけどな」と思うだろう。
しかし、なんか。辛いのだ。
うれしくない。なんか暗さというか、深刻さというか、固くてしんどい感じばかりが伝わるのだ。
なので、「確かにそうかもしれないけど」とうやむやにされてしまったり「その言い方はきついよ」などと言われてしまったり。
「わかりました」と言いつつ、なかなか実行しなかったり。
それでご本人は
「また伝わらなかった。この言い方じゃダメなのか。こんなこという自分がおかしいのか。じゃあ言わなければいいのか」
とか葛藤が深まってしまう。

しかし、言わなければいい、どう言ったらいい。ではないと言うことなのだ。
その根底にあるもの。
まずは「それではダメだ!」という否定。
その否定を生んでいる、憤り。
そして二度とそうはさせてはならじ!という防衛。
そして、その根底に埋もれている「された」痛み。
そこに光を当てて、ボタンの掛け違いを解き、かつての痛みを癒していくことが有効だ。
そんな癒しが進むたびに、その言葉から、否定の鋭さと硬さが消え、尖りすぎた危機感が緩み、
「こんなことにならないため!」という防衛を原動力にした言葉ではなく
「こうなったら、こんなに嬉しいよね!これだったら幸せだよね」という「愛」を原動力とした言葉に変わっていく。変えていく。
そうなった時に、そのはっきりした言葉は、痛い正論ではなく、真っ当な本質として、届く人に届いていくだろう。
その思いのもとに、温かさ、柔らかさと共に語った言葉は、人の心をあたため、熱を引き出し、
「そうなりたい!そうしたい!」という熱い力になって、動いていくだろう。
「言い方」ではなく「思い方」。
これが、伝わらない話が伝わるようになるための、土台的変革の鍵。
ここに本質的な解決の糸口があるのではないか?
という一つの考察でした。




