ああ、歌うことは
難しいことじゃない
ただ声に身を任せ
頭の中をからっぽにするだけ
斉藤和義さんの「歌うたいのバラッド」に
こんな一節がある。
そう、そうなんだよね!
ほんと、難しいことじゃない。
でも、これを語れるのは
並大抵じゃない。
なぜなら
ただ声に身を任せ
頭の中をからっぽにするだけ
という状態を
自ら作るれるようになるまで
途方もない道のりが必要だから。
このことは
ある程度芸事や武術をやってきた人なら
きっと身をもって知っているだろう。
この歌を聞いて私はすぐに
頭の中で「ピアノを弾く」に置き換わった。
ピアノを弾くことは
難しいことじゃない。
ただ指に身を任せ
頭の中を空っぽにするだけ。
本当にその通りだ。
私がこれを知ったのは本当に最近で
なんと去年のことだ。
ピアノという楽器を触るようになって
いったい何年目なんだ!?
それを言ったら目が昏みそうになるので
あえて言わないけれど。
あるアーティストのツアー公演で
ピアノを弾いている時に初めて感じた。
ああ、こんなに簡単なことだったんだ。
何を難しく考えていたのだろう?
って。
ただ、心と指の通り道を
風通しよくしておくだけ。
なんの力もいらない。
これがわかって
私は初めて
「自分はピアノが下手なわけじゃない、
今弾けている、これでいい。」
って思えた。
過去、仕事としてピアノを弾いて
お金を得ていたその時も
ずっと私は
自分がピアノが下手であることを
負い目に感じてきた。
それは、芸事というものの
圧倒的に高く遥かな山脈を彷徨う道を
はからずも選んでしまった者の
宿命というべきものかもしれない。
手を出してしまった時点で
その密林に足を踏み入れたということになる。
真剣で誠実にその道を行こうとするなら
誰もがまずは
その山脈の麓(ふもと)の細い道を
コツコツと一歩一歩
登らなければならないから。
高みへ登ろうとするものはまず
今現在自分のいる場所の低さを
直視しなければならないから。
難しいことをできるようになるために
労力と時間と知恵を使っていくのが
その道の登り方だと、教えられるから。
そんな心の癖がしみついたまま
いつまでも
「まだまだ、足りない足りない」
と言い続けることになる。
実は
いつまでも「足りない」と
言い続けたくなるその奥には
自分自身の「存在そのもの」への信頼が
本当は足りていないという実態がある。
そうすると、力が入る。がんばる。
その状態では
存在と身体が仲良くできない。
だからやっぱり
それは「難しいこと」であり続ける。
その時、最も重要になっているのは
頭の中の諸々だ。
他者の基準や評価
能力だ技術だ資質だ才能だ
上だ下だ、勝ちだ負けだ
損だ得だ、成功だ失敗だ
「存在」よりも、そんなものの方に
強大なリアリティを感じているからこそ
「存在」なんてものの存在が
わからなくなる。
だからこそ、この道で
究極的に向かうところは
自分という「存在」。
存在が歌う。
存在がピアノを弾く。
その「存在」に
自分でOKを出せて
そこにくつろいでいられるなら
歌うことも
ピアノを弾くことも
ああ、難しいことじゃない。
ただ、声に任せ、指に任せ
頭の中を空っぽにするだけだ。
他者の基準や評価
能力だ技術だ資質だ才能だ
上だ下だ、勝ちだ負けだ
損だ得だ、成功だ失敗だ
といった「頭」を
空っぽにしさえすれば。
そんな恐れと思惑に覆われた
胸の目隠しを外しさえすれば。
任せた身体から
存在が音を出す。
そこが「難しいこと」じゃない場所。
そこから出てきた音が
聴く人の「存在」を響かせる。
そんな瞬間に
私は遥かに憧れる。
その場所にいたくて
そんな音を出せる人でありたくて
やっぱり音を出す。