南禅寺は、臨済宗南禅寺派の大本山。「五山の上」と評される格式の高い禅寺です。
南禅寺サイト「宗旨」の項目には次のように書かれています。
静かに坐り、自己の本心本性をみつめ、その導く清浄なることに気づいたとき、自分をとりまく全ての人や物も、導く有難い存在として心に響いてくるのです。
達磨大師より11代目の祖師は唐の臨済慧照禅師です。禅師は「我々の生きた肉体の中に真の仏があり、それは目で見、耳で聞き、口で語るというかたちで、常に我々のからだを出たり入ったりしている。それをはっきり自覚せよ。」と強調しています。自己のうちにある仏心を呼び起こせということでありましょう。
仏教で言うところの「自己の本心本性」あるいは「己の中に仏がある」とは、今の言い方でいうと「自分が魂存在であることを自覚する」ということです。
坐禅でやっているのは、肉体自我を超えた魂存在としてのリアリティを強くしていくこと。
昔の人は、基本的に自然と共に生き、自然のリズムと調和して生きていたから、ひたすら坐禅することでそこへ至ることは、比較的可能だったかもしれないと思います。
しかし、近現代を生きる私たち人間は、自然との絆を断ち切られ、自然のリズムに逆らう社会的なビリーフ(信念・常識)をたくさん仕込まれ、本来の生命力を封印され、野生のカンや本能を見失って、思考のみを空回りさせて死んだように生きるということがデフォルトとなっています。
いわば、魂を麻痺させる社会的な「思考毒」に生まれた時から晒されるということ。
それが現代に生まれ育った人間の宿命ともいうべきものです。
そんな現代の私たちは、ただ座っているだけでは、元々の魂、つまり仏であるところの本心本性を自覚することは、昔に比べて相当困難になっているのではないかと感じます。
多くの人は、絶え間なく湧き上がる否定的な思考との闘いにほとんどのエネルギーを費やして、本来の存在を感じるまでの余力が残っていません。
思考毒による汚染が酷過ぎるのです。
そのような現代人はまず、いかに「思考毒」にやられているかに気づき、思考毒を抜いていくところから始める必要があります。
つまり思考のデトックスをある程度やってからやっと、「存在」という本来を垣間見ることができる。
汚染された食によって身体に溜め込んだ毒を抜かないと、本来の健康は取り戻せないように
存在もまた然り。
自然の力を麻痺させる思考毒を抜かない限り、本来の魂存在・仏性を取り戻すことはできないのです。
だからこそ、思考毒に気づき、見抜き、抜くためのビリーフリセットが強力なツールとなります。
ビリーフをリセットしながら、坐禅/マインドフルネスを実践することの意味はそこにあります。
ビリーフリセットがやっていることは、思考毒のデトックス。
その目的は、いにしえの昔から仏教が観ていた
自己の本心本性・仏性を我が身に見出し、肉体であることと仏であることを一体にして生きる
という生き方へのシフトにあるのです。
今の言い方で言うならば「魂存在としてのリアリティを中心に置いて、パワフルに現実創造して生きる」ということです。
それは遠い絵空事ではなく、今、風の時代と言われるこれからの新しい時代だからこそ、手が届くものになりました。
今回、京都の地で、南禅寺という環境をお借りして、私たちがやろうとしているのはそういうことなんじゃないかと、
ワークショップ前日、京都入りして一人思いを巡らせていました。