人は死に近づくと、自我がどんどん落ちて、魂が露わになるのかもしれない。
それまで家族が手を焼いていたような頑固で意地っ張りのお父さんや、
愚痴ばかり言ってどう見ても不幸そうにしか見えなかったお母さんが、
看取りの病床にあって過去を振り返り「幸せだった」と言ったり、家族に感謝を述べたりすることがあるらしい。
人の本性は魂であり、仏性だ。
私はそう思っている。
魂・仏性とは、穢れなく光るエネルギーの本質のようなものだ。
しかしその仏性の周りに、人生何十年もかけて分厚い自我の鎧が張り付き、
それ故にあちこちで歪んだりぶつかったり、嫌な思いをしたりさせたり、悩み苦しみでバタバタな人生が出来上がる。
人間界で生きるとは、今のところそういうことなので仕方がないのだ。
だから周囲の人や家族も、そういう姿こそが自分の知っているいつもの「お父さん」や「お母さん」だと思っている。
しかし、再び魂に還っていくその前に、自我がゆるんで落ちてゆくということがあるのだろう。(もちろんそうではない人もいるだろう)
そうなった時に、それまでの自我の鎧の姿形からは想像がつかないような、清らかで穏やかな「仏」が現れ、その「仏」が語るのだろう。
一般的に、家族ではあっても、本当に心が通い真心が響き合うような出会いの時間を経験したことのある人は滅多にいない。
なぜなら、そのような出会いの瞬間とは、お互いの魂・仏性が響き合うことによって成就するものだから。
それでありながら、現代人は自我の脱ぎ方を知らず、仏性がそのまま現れるほど無防備に心を開くことなどほぼなく、
魂から溢れるような言葉を語り聴くなどということも、ほとんど経験したことがないからだ。
家族といえども自我と自我の集まりであり、自我と自我のぶつかり合いやすれ違いが当たり前、よくて自我と自我の調整・・・それが精一杯だったりするのが普通である。
だからこそ、死へと近づく極限の場において、ご本人の自我がゆるんで魂そのものの姿に近づき、はからずも仏性が垣間見えたその瞬間に居合わせた家族は、
相手の仏性に照らされて、自分自身も自我の鎧が一時的にゆるみ、自然と仏性が引き出され、それまで言った事のないような「本当の気持ち」を思い出し、伝えることができるのだろう。
それは、奇跡のような言葉が通う瞬間ではないだろうか。
その時、開かれた心が安らぎと温かさに満たされ、切れることのない絆を思い出し、この上ない喜びを感じるものであり、家族にとっては宝物のような時間となるのだろう。
これまでお互い自我同士でガチガチぶつかっていたことなど、その瞬間にはチャラになるくらい、仏性の力というのは大きいのだと思う。
仏性で出会えば、人はあたたかい。
魂で出会えば、人はすでにつながっている。
そんな体験をした人は祝福に値するし
そんな稀有な瞬間が、今のところほぼ亡くなる前だけというのはとても残念ではある。
本来、人は魂であり仏性であるのだから、生きている間にいつもそんな出会いができればいいのにね。
元気でバリバリやれるうちから、自我に翻弄されすぎず、魂として生きて、お互いの仏性に照らされ合って生きられたら、もっと幸せな世の中になるのにね。
それは私自身の遥かな願いである。
どんなに遥かではあっても、明確にそちらを向いて自分の仕事をすることを、私は諦めることができない。