今朝、突然わかった燃え尽きの理由
朝方見た夢。
私は自分が作曲したデモ音源を誰かに聴かせていた。
それがまあ、自分でも「よくそんなことを思いつくね」と思うような、破天荒な、おもしろい展開をする曲だった。
コンガの連打とか、よくこんなの打ち込んだな(笑)って、夢の中でも思ってた。
でも、制作途中の曲だったらしく「とりあえず、ここまで」っていうところで終わり。
目が覚めてしばらくして、はっきりとわかった。
約8年前、私が音楽で燃え尽きた理由が。
私は「欠乏動機」で音楽をやっていたことに燃え尽きたんだ!
欠乏動機とは
足りない、欠けている、十分でない
というマインド。
能力が、技術が、知識が、
経験が、才能が、努力が
これじゃまだまだダメ。
足りてない。追いついてない。未熟だ。
こんなんじゃぜんぜん。
この程度じゃまだまだ。
もっとやらないと。
もっと努力しないと。
もっと勉強しないと。
もっと全体がわからないと。
もっと書けないと。
もっと楽器のこと知らないと。
もっと研究しないと。
もっと最先端を追いかけないと。
もっと器を広げないと。
もっと経験積まないと。
もっとアレもコレもできて、
アレもコレもわかってないと。
あーあー、もっともっともっと・・・・
うおお〜〜〜、もううんざりだ!
こんな音楽の仕方を何十年もやってきて、私はついに燃え尽きたのだった。
子供の頃から音楽が得意で、東京芸大作曲科というところに入り、プロとして音楽業界で20年活動してきた。
いわゆる「食えるミュージシャン」になれたし、最終的には自分のやりたい音楽で、望んだようなプロジェクトを動かせるようにもなっていた。
しかし、実は心の中の根底では、いつまで経っても自分にOKを出せず、「足りない、まだまだ」という思いは止むことがなかった。
欠乏でエンジンが回っているから、いつまでも足りるということがない。
「もうこれでいい」ということがない。
自分自身が欠乏動機で回っているかぎり、現実からも、いつも「自分の欠乏」を突きつけられる。
そしてまた、自分の欠乏に打ちのめされる。
だからまた、やらなくちゃ、がんばらなくちゃと、重い足を引きずって勉強へ、努力へ・・・
その回路に終止符を打つために、私は燃え尽きたんだ。
ということが、今朝はっきりわかった。
「足りない、まだまだ!」という欠乏動機
このことはもうわかっていたつもりだったけれど
でも、なんだろう、この今までとは違う「はっきりわかった感」は。
これまでだって、確かに気づいていた。
それは、
「私は人間として欠けているから、音楽でカバーして巻き返すんだ」という欠乏動機で、音楽をやっていたこと。
ほんとはダメな「人間・自分」と、ちょっとはマシな「音楽家・自分」との分離。
これはわかってた。
そこから脱出して今があると思っていた。
その音楽の世界でも、こんどは音楽的な「欠乏」を回してドライブしてたんだ、自分!
てことが、今日見えてしまった。
たしかに、芸事や技能の世界というのは
「ない現状、たりない現状」をスタート地点として、そこから、知識・能力・技術をつける、積み上げる、成長させる・・・という構造になっている。
これ自体はそういうものだし、上達する、うまくなる、というのはそういうことだ。
だから、みんな必死になって。努力して練習して勉強して、うまくなっていくのだ。
もっと、もっと・・・と上をめざしていくのだ。
これ自体が悪いわけではない。
しかし、一方で。
私たち凡人の場合、そこには、ホンの紙一重の裏表で「欠乏=恐怖」が見え隠れする。
やらないとダメになる
足りないと生き残れない
うまくないと仕事がこなくなる
できないと見放される・・・
〇〇ないと、〇〇ないと、〇〇ないと!
ない、ない、ない!
「ない」ことは、終わりを意味し、底知れない恐怖に結びつく。
その恐怖から逃れるためにこそ
もっと、もっと、もっと
まだまだ、まだまだ、まだまだ
と走り続ける。
これが欠乏動機。
欠乏動機から充足動機へ。根底の転換
向上・成長という健全な目標と、欠乏・不足という見えない恐怖とを、どう折り合いつけるか。
それは音楽に限らず、人間のあらゆる営みにおいて、これまでの時代、この世界で生きようとする人間の普遍的なテーマであったように思う。
しかし、これからの世界は、この、そもそもの「動機」の書き換えに向かっていると私は信じている。
「欠乏動機」から「充足動機」へ。
「足りていない、欠けている、ない!ない!」という基本マインドから
「足りている、十分だ、ある!ある!」という基本マインドへ。
「この転換が、これからの時代の鍵だ!」という考え方を、私も全面的に支持する。
この考え方は「何がどれくらいだから」という物理的な根拠を要しない。
私たちの心の基本的な構え、コンピューターでいうところのOSのようなものだ。
このことについて詳しく語るとややこしすぎるので、ここでは触れないけれども。
私もまた20世紀に生まれ、欠乏動機で努力成長し続ける従来型の成長モデルに、一生懸命乗っかって、自分なりに行き着くところまで行ったのだ。
だからこそ、この時代の節目に居合わせて、その書き換えの必要性というものを、自らの身体で知ることになったのだ。
つまりそれが、私にとっての燃え尽きだった。
以降私は、心理セラピストの道を選びながら、私の中の欠乏動機という、根底のOSにあたるところから書き換えに取り組むことになった。
そのために、こんなにも時間が必要だったのだ。
「もう音楽ができなくなった」のではなくて
「もう欠乏動機で音楽ができなくなった」っていうことだったんだ。
イコール、「もう欠乏動機で生きていくことはできなくなった」ということでもあった。
一度音楽をストップさせてでも、私は人間としてのOSを書き換えたかった。
欠乏動機から充足動機へ、という意識の根底的な刷新を、私は体験したかったのだと思う。
そして、その刷新の時代を生きたかったのだと思う。
ぜんぶ「今から思えば」だけどね。
意識刷新の時代が始まっている
そして私のOSはもう書き換わっている。
「充足動機」に書き換わっているのが、今はよくわかる。
「足りない、欠けている」が幻想であり、かかってしまった呪いのようなものだったことを実感している。
内なる豊かさとはこういう感じか、と味わうことができる。
だから、この新しいOSの上で、音楽を再起動することもできるはず。
やりたくなったらね。
やらなくたってべつにいいけれどね。
重要なことはそこじゃないから。
この意識で在ることが軸だから。
音楽であれ何であれ、この意識の土壌から創り出されることが、すべて私の「仕事」になるのだから。
そして、この歴史的な意識刷新の時代に居合わせて
小さな旗でもいいから振って、少しでもその風を起こす側に回ることが
私のいちばんやりたい「仕事」なのだろうから。
2015年、時代の変化が加速する予感。