けっこう音に出ています
音楽は、音によって織りなされる、ある状態でありエネルギーです。
不思議なようですが、出てくる音には、弾いているその人が考えていることや感じていること、心の状態、意識のありよう、といったものまでが、”乗って”現れるものです。
演奏しているその時。
その時、その瞬間、何を感じながら弾いているか。
頭の中には何が駆け巡っているか。
今自分は、どういう心の状態か。
音楽をやる人にとって、このことを自分の内に振り返ってみることは大切なことだと私は思っています。
もちろん技術的なことも大切ですが、技術だけではない「何か」というのは、こういうところから現れてくるもの。
いろいろな人が、たとえ同じ曲を弾いたとしても、伝わるものは全然違います。
曲という音符情報の奥から伝わってくるものは、その人の内面の状態といってもいいものです。
つまり内面が「バレる」んですよ! 音楽って。
こわいでしょう?(笑)
でもそこが素晴らしいところでもあります。
たとえば
頭の中が「ドレミ」を追いかけるので精一杯の人からは、
「ドレミを追いかけるので精一杯ですーッ」
というかんじのたどたどしい音がします。
「きちんとやらなきゃ!ハイ、きっちり。ハイ、間違えないように。」
といったことで頭が一杯だと、やはりそういう音がします。
「嫌だわ〜、自信ないわ〜、すいません、あたしなんか・・・」
といったことで頭が一杯だと、やはりそういう音がします。
「俺すごいだろ、な?な?すごいだろ、惚れるだろ?」
とギラギラしながら弾いていると、やはりそういう音がします。
もちろん、それは言葉ではありません。
言葉を超えたところで、そういう「気」や「エネルギー」のようなものが、聴いてる側に伝わってくるんですね。
そのような「気」をあえて言語化して解釈すると、そういうかんじになります。
あたたかく包みこむような気持ちで音を出せば、あたたかく包み込まれるような音が。
「元気元気!よっしゃ行こうぜー!!」という気持ちで音を出せば、「よっしゃ行こうぜー!」という音が。
さらに、特定の感情を超えて、無心になればなるほど、個人を超えたもっと大きな次元・・・そういった広大な感覚を呼び覚まされるようなことさえ起こってきます。
もしあなたが、音楽を聴いてとても共感したり感動したりするなら、その音楽家の内面の状態(気やエネルギー)に、あなたは共感したり感動しているのかもしれません。
あなたが音楽をやる側とするならば、そのような「内面のチューニング」をどこにもっていって音を出すか、というのが表現力の違いにつながることになります。
一台のピアノでも、オーケストラが鳴る
さらに、
楽器を弾きながら、何を想像しているか。
どういうつもりで、楽器を弾いているか。
ここにも、かなり違いが出ます。
たとえば
「これはピアノで、 今私は一人でピアノを弾いている。」
と思って弾いていると、あくまでも、一人で弾いているピアノの音がするけれど
頭の中にはオーケストラが鳴っていて
オーケストラの各楽器がこう動いて、
今鳴っているメロディーは木管で、
それに下からチェロがこう絡んで・・・
と思って弾いていると、まるでその楽器が鳴っているような印象で伝わります。
ここはオケ全体で一斉にダダンッとフォルテ!と思って弾くと、本当に、オーケストラのような厚みと迫力と華やかさを感じさせる音で一台のピアノが鳴ったりします。
あるいは頭の中に、ドラムとベースが鳴っていて、そして自分が今やっているこの和音は、ホーンセクションがバキバキッとキメているんだ、と思って弾いていると、ちゃんとビッグバンドが鳴っているような印象になるものです。
それはさらに
今ここはどこで、何の景色を見ているか。
ということにもなってきます。
「私は今、自宅レッスン室でおけいこ中です。」としか思わずに弾いていると、「ここはレッスン室。おけいこ中の私。」という音がします。
「ここはスペイン、グラナダの路地裏。晩夏の夕暮れ。残る石畳の熱、石塀からこぼれて咲く花の匂い、灯り始めたバルの灯り・・・」
などを感じながら弾いていると、鮮やかな「グラナダの夕刻の景色」がその場に現れたりします。
いや、ほんとに。
芸事の力って、そういうこと。
そこに景色が現れる、リアリティの力
以前コンサートで見た、ある達人オペラ歌手の方。
日本語の歌でした。
少し目線を上にしながら「月が・・・」って歌ったら
ほんとに月が出てるんですよ。
いや、目には見えませんよ。
でも、みんなの心の目に、月が出ているのが見えるのです。
もうそこは、一瞬にして月の晩です。
なぜなら、歌っているご本人が、ちゃんと心の目で、そこに月を見ているからです。
それから、あるライブで見た、達人のベーシストとヴォーカリストのお話。
通常はバンドで演奏されるような、激しいリズムの曲をたった2人だけでやり始めました。
楽器はベースですから、低音のラインだけです。
そこに歌が乗るだけ。
なのに、2人の音の間に、ドラムが聞こえ、パーカッションが聞こえ、ギターやピアノが聞こえ・・・まるでバンドのようでした。
なぜなら、2人が、ちゃんと心の耳で、ドラムを聴き、パーカッションを聴き、ギターやピアノまでも聴いていたからです。
伝わるというのはそういうことです。
音と音の「間」から、「奥」から
今ここを超えた、場所と情景が鮮やかに浮かび上がり
今ここを超えた、多様で豊かな音が響いてくる。
それはひとえに、演者がどれだけ想像の上で
その場所にいるか。
それを感じているか。
それを見ているか。
それを聴いているか。
心で見る力・聴く力・感じる力・在る力。
そのリアリティの深さが、伝わるリアリティの深さになるのだと思います。
言葉と間だけで、映像があらわれる話芸
そういう芸のすごさ、おもしろさを、私は落語に感じることがあります。
私が気に入っている、柳家小三治の「芝浜」。
映像なしで、音声だけ聴いていても、中盤、主人公が芝の海岸で夜明けを待つシーンは、なんたる美しさでしょうか。
冬の夜の冷気、夜明けの光の加減、
穏やかに波が打ち寄せる砂浜、潮の匂い・・・・
わずかな言葉と間だけで、なんでここまで「見える」んだろう。
もちろん、磨き抜かれた話し方ということではあります。
そして、その話し方の奥には、やはり実際、ほんとに、演者自身がその場において、明け方の芝の浜にいて、その空気を感じて、それを見ているからだと思うのです。
それがあった上での、話し方。
その、心で見る力・感じる力・在る力に、私は感動するのです。
「芝浜」は古典落語の名作といわれる人情話です。
柳家小三治の端正な話し方が私は好きなので、おすすめしたいです。
耳だけの音声情報で、いかに色々なことが浮かび上がるか。
なんにもない、空白に見える「間」が、何を感じさせるか。
というのを実感してみることもできるので
お時間のある方はどうぞ。
☆旧ブログ「大人の音楽レッスン」より
2014年4月に書いた記事を加筆修正しました。