「才能」っていうと
何か特別にすごいことができるとか
人より格段に優れているもの、
みたいに思っている方も多いのでは?
だからこそ
「いえ、私には特に何の才能もないですから!」
とか言う人も多いのです。
でも私はちょっと違うふうに考えています。
才能ってどういうところに現れるか。
それは
「自分がとても自然にやれて、楽しいこと」
とか
「つい没頭してしまうこと」です。
当たり前にやれちゃって、しかも楽。
そんなとってもナチュラルなところにこそ
自分の才能があるのだと思います。
「私にとって
当たり前に、楽にやれちゃうことって
何だろう?」
自分の才能を発見するのに
そんな問いを立ててみるのも
一つの方法です。
それは何も
スポーツ選手や芸術家のような
わかりやすい「技能」に限りません。
たとえば
ありあわせの材料でパパッと何か思いついて料理が作れちゃうとか
つい細かいところに目配りがきいて、さっさと整えちゃうとか
人の様子を敏感に察知して、声をかけてあげちゃうとか
人のお洋服のコーディネイトを見て、もっといいアイディアを思いついちゃうとか
道ゆく車の種類をつぶさに記憶しちゃうとか
好きな俳優の映画をかたっぱしから調べて観ちゃうとか
旅行の行程を楽しく組んで段取りしちゃうとか
植物が語りかけてくる声がわかるような気がするとか・・・
そういうことだったり
するかもしれません。
才能とは
「人と比べてどうか」じゃないです。
とりあえず、人、関係ない。
自分がやっていて
自然にうれしいかどうか。
自分だけの問題です。
そして、必ずしも
仕事になるとか稼げるとかを
まっ先に考えなくてもいいでしょう。
稼ぐかどうかだけが
才能の使い方とは限らないのですから。
自分のいのちが喜ぶかどうか。
そっちの方が本質です。
いのちが喜んでいる時というのは
「自然に、楽で、うれしい」
かんじがするものです。
それが自分の元々の性質に
合っているということです。
バラがバラとして咲く。
ツタはツタとして絡まる。
竹は竹として伸びる。
当たり前ですね。
自然とはそういうこと。
それがいちばんバラにとっても
ツタにとっても
竹にとっても
自然で幸せなわけです。
自然の摂理に「無理」はないのです。
私たちも
そんなふうに考えてみる。
自分は自分として
どうなる「種」なんだろう?
自分にとっての自然とは?
もともとの性質、本質。
そこが、そのまんま才能です。
それを思い出せたらいいですね。
それがわからなくなっちゃったり
ありそうなのに否定しちゃったりするのは
人間界のメンドクサイ仕組み
「自我」つまり「ビリーフシステム」に
幼いころから封印されてしまうからです。
だからこそ
ビリーフシステムという「封印」を解いて
もともとの自然を思い出す。
自分ならではの
「自然体」に戻る。
そこにこそ
「自分らしく幸せに生きる」
の鍵があるのではないでしょうか。