ピアノ曲ではない曲を、ピアノで弾けるようにアレンジして弾く。
ピアノアレンジ。
私はこのことにかなり思い入れがあることに気がついた。
バンドやオーケストラでやっているような曲を、どうやってその曲らしさをそのままに、10本の指で表現するか。
マクロの世界をミクロに凝縮していくようなその作業に、けっこう私は燃えるのだった。
それの最もわかりやすい実例が、こちら
森羅万象(ありとあらゆるもの)〜ピアノで語るゼーガペイン〜
2016年に作ったこのCDは、そのまた10年前に作った同名のアニメのサウンドトラックを、作曲者の私がピアノソロバージョンとしてアレンジして弾いたものだ。
まあ、自分の曲だから自分の好きなように弾けばいいのだけど
私はやっぱり、元の重厚な編成の曲の雰囲気をいかにピアノ一本で出すかにこだわった。
おかげさまで、アニメのファンの皆さまにとっては、馴染みのあるサントラの雰囲気を彷彿とさせながらもちょっと新鮮な体験として楽しんでいただけたようだ。
で、最近の私は、久しぶりにそんなふうに弾きたくなって、気に入った何曲かを耳コピーしてアレンジしながら弾く練習に取り組んでいる。
これがとてもおもしろい。
原曲のノリをピアノだけで出せる奏法をみつけた時、めちゃくちゃ燃える。
そして思い出した。
思えばこういうこと私、幼稚園のころからやってるんだわ!
幼稚園時代。
まだピアノも習いたてだと思うけど、私は園で覚えたお遊戯の歌とか、キリスト生誕劇(カトリック系だったのでね)の中で歌う劇中歌などを、聞き覚えで自分で適当に伴奏をつけて弾いていたのだった。
以降、小学校でも中学でも、その時々でそういう「聞き覚えアレンジ」をやっていて、その中で自然にコードネーム(和音の種類を表現する決まりごと)も覚えていった。
それもあって、高校生になったら「私、こういうこと向いてるんだわ」と自然に悟って、芸大でもピアノ科ではなくて作曲科へ行こうと思ったのだった。
つまり、ここで皆さんに言いたい大事なことは
好きなこと、向いてることって
だいたい幼稚園の時にやってたことなんじゃない?
っていう仮説。
幼稚園の時に夢中になってたこと
幼稚園の時から自然とできちゃってたこと
幼稚園の時にもっとも自分らしくやれていたこと
才能っていうのは、意外とそういうところにむき出しになってたりするんじゃないだろうか?
それは、余計な自我が自分自身を閉ざしていく以前の時代、いわば「第一次黄金期」の、束の間の輝きのようなものかもしれない。
だからこそ、そこから何十年も経って大人になった私たちが、
「ハテ? 私は何が好きで、何が才能なんだろか?」
なんてすっかりわからなくなった時に
立ち返るべきは、幼稚園時代。
それは何も、芸術とかスポーツとかの特殊そうにみえる分野だけに限らない。
お友達とゲラゲラいってはしゃいでいるのも、才能。
夢中になって虫取りに駆け回っているのも、才能。
静かに物語の世界で空想に耽っているのも、才能。
空ばかり見てお星さまとお話しているのも、才能。
現れ方はそれぞれでも、そこにはすべて「我を忘れて喜びの中にいる」という状態がある。
それこそが、私たちの本質なのだ。
心理学的には「ワンダーチャイルド」という言い方もある。
元々の、無垢で天真爛漫な自分の本質のことだ。
そんなふうに考えてみると、意外と人間、何十年生きたって本質は変わらないな、って思う。
むしろ、忘れた本質を取り戻すための何十年、だったりするのかもしれない。
私にとって、好きな曲をピアノアレンジして弾くのは、その曲に対する愛と敬意の表現なのだ。
そうやって音で世界を表現する。
それもきっと、世界に対する愛の表現なのだと思う。
それは愛だから
やまることがない。
飽きることがない。
いつも戻ってくれば、そこにある。
そんな愛の表現のしかたが
人それぞれある。
それを「才能」と
いうのかもしれないね。