「がんばれない」にも種類がある
「がんばれない」っていうワードは、私のブログの検索ワードの中でもけっこう上位に入ってくる言葉です。
「がんばれない」で悩んでる人ってけっこう多いってことなんだろうなあ。
でもね、ひとことで「がんばれない」って言っても、いろいろ種類があると思うんです。
人によって「がんばれない」の種類が違うから、対処の仕方も違う。
私が今思いつくところで4種類くらいあげてみますね。
「がんばれない」の4タイプ
1.そもそもやりたくない
やりたいことじゃないとか、自分に全然合ってないのに「やらなきゃいけない!」と思い込んで、しかしやりたいことでも合ってることでもないから力が出なくて「がんばれない」・・・と折れてるパターン。
以前にこんな記事を書いているので参考にしてください。
こういう場合は、自分の感覚や感情や欲求といった「自分自身のこと」にそろそろ目を向けてみようよ?というサインです。
幼い頃からあまりにも、親や学校や周りの言うことをを鵜呑みにしてきたかもしれないね?
もう、自分のことを考えてもいい。
親や人とは違う、自分の感覚を信じてもいいんですよ。
2.さんざんがんばってきて、もう無理
こちらは、もともとがんばることを生きるエネルギー源にしてきたタイプの方。
努力、向上、成果、達成、生産性、役に立つ・・・等が大好きで、そうやって「上」を目指せばいつかは幸せがつかめると思ってがんばってきた。
つまりがんばることはある意味簡単にできる。
けど、がんばるしか知らない。
前に進むことしか知らない。
止まることを知らない。(止まるのが怖い)
ゆるむことを知らない。(ゆるむのは悪)
・・・って何年も続けていると、さすがに油切れしてくる時期があるんです。
その時に「もう無理。これ以上がんばれない。」ってなる。
この「がんばれない」の場合は、そういう「がんばるエンジン」で回ってきた人生そのものを見直すタイミング、つまり「転機」がやってきたということです。
こういうケースのお話はこれまでもけっこう多いです。
こちらを参考にしてください。
3.がんばらない方が都合がいい
こちらはもうちょっと複雑です。
というか、無自覚な潜在意識の領域で起こっていることなので、ご本人も気がついてないことも多いです。
人の潜在意識は結局「自分にとって良いように」という選択をして動きます。
だから「がんばれない」時は、がんばらない方が「自分にとって良い」理由が、深いところであるのです。
この場合は「がんばってしまうとリスクがある」と深いところで思ってるから「がんばれない」。
(と言って実は「がんばらない」)。
リスクとは
・うまくいかない
・失敗する
・それによって痛い思いをする
・みじめな自分を直視しなきゃいけなくなる
ということ。
やらなければそれを避けることができるから、そのメリットをとっているわけです。
この場合のお話はこちらに書いています。
そして、意外かもしれないけれど、もう一つのリスクもあります。
・うまくいってしまう
・成功してしまう
・それによって飛び抜けてしまう
・自立してしまう
・幸せになってしまう
つまり、がんばってしまって、できてしまうとマズイんです。
これがリスクとなるタイプの人もいるんですよ。
どうしてこんなことがリスクなのか?
・・っていうのはこちらに書いてます。
このあたり、図星の人にはけっこう痛いところだと思うんだけど、ちゃんと向き合うとすごく「効く」ところです。
肩こりや足ツボと同じ。
痛いところが効くところ、ですよー。ごめんネ。
で、そんなあなたがそこで腹をくくってもう一歩「がんばる」をやれるようになった時
そんなあなたを待ってる人たちがきっといるのです。
きっとその人たちが喜びます。
その方たちのためにも、あなたが「立つ」ことが待たれているのでは?
なんて考えてみるといいです。
4.がんばり方を知らない
そして最後は、そもそもがんばったという経験がないタイプ。
なぜないかと言ったら1つは、親が機会を与えてくれなかった。
失敗しないように、怪我しないように、汚れないように、嫌な思いしないように・・・ぜんぶ「しない・させない」ことで守ろうとしてくれてしまった親というのもいますからね。
つまり、なんでも先回りしてやってくれたおかげで、自分でやってみる、自分の力を使ってみるという経験を奪われてしまった場合っていうのがあります。
そうすると「自分でやる」ってことがめちゃくちゃハードル高くなっちゃって、いつまでたっても「やりきった」経験がない。自立できない。
親は「良かれと思って」なんだけど、本当に今後の人生のために「良かった」のか?って話。
あえて名付ければ「過保護系」ですね。
もう1つは、虐待や育児放棄などで、産まれて早々から生存の危機にさらされていた場合など。
そしたら圧倒的な「世界の危険」と「自分の生存危機」のことで精一杯になるし、自分の存在そのものに確信が持てなくから、「やる」とか「がんばる」とかそういうことにまでエネルギーが及ばなくて当たり前です。
これは「虐待系」と言っておきましょうか。
そういう場合はまず、癒しが先。
大怪我してるところにスポーツの練習しろ!というのは無理なように、心の怪我を直さないとね。
専門家の助けを借りて、ゆっくり自分のことを考えて、自分の存在を一つ一つ取り戻していってほしいなと思います。
で、「過保護系」の人の場合は、使わないゆえに「筋肉」が発達していないようなものだから、まずは筋肉を使ってみるところから始めてみることですね。
一歩ずつでいいから。
赤ちゃんが転びながら歩くことを覚えるように、小さくても一歩ずつ「まず、やってみる」という行為を積み重ね、「やりきった!」という満足感を味わっていくことです。
それによって、無力感から少しずつ脱出して自信を持てるようになっていくでしょう。
その場合のお話も含め、「がんばる」ことにも段階があることを書いたのがこちら。
「がんばる」とは「自分の力を使う」こと
さて、ここまで書いてあらためて思うのは
「がんばる」とか「がんばらない」とかいろいろ言うけど、
前提として
「がんばることがいいことだ」
というのも、思い込み=ビリーフだということです。
がんばる=善、というわけじゃない。
全員ががんばれるようになるべきだ!というわけでもないし、「がんばらなくていいよ〜」というわけでもない。
そもそも
「がんばる」って何?
何することが「がんばる」ということでしょうか?
これも解釈ね。
私は、「がんばる」の本意は「自分の力を精一杯使う」ってことなんだと思っています。
だから、使いたいことに自分の力を使えばいい。
使いたくない時には、使わなくていい。
自分が「これだ!」と思うことには、思いきり力を出しきったらいい。
究極的には
がんばってもがんばらなくても、どちらでもいいんです。
そうやって頭を自由にして
なんだかわからない「がんばる」の呪縛から離れて
結局「自分がどうしたいか」にフォーカスしていけたらいいですね。